2023年2月に「患者さんのための乳がん診療ガイドライン」が改訂されて発刊されました。そこで、その企画・編集を行っている日本乳癌学会の理事長 戸井雅和先生に、乳がん経験者の井手久日子さんと一緒に、改定のポイントやその活用方法などについて伺いました。
戸井雅和先生 プロフィール
がん診療に携わり40年。広島大学卒業、英国オックスフォード大学での留学を経て、1992-2007がん・感染症センター東京都立駒込病院に勤務、乳癌診療、臨床試験を中心に行う。2007から京都大学大学院医学研究科乳腺外科学教授。2023年4月より現職、駒込病院院長
井出久日子さん プロフィール
38歳の時に、リンパ節と骨への転移が認められ、乳がんステージⅣの診断を受ける。手術は受けず、抗がん剤治療を選択。効果を示し、告知から1年2か月後に手術を受ける。現在は、ホルモン剤を内服しながら、フルタイムで仕事復帰している。
関連記事:乳がん・子宮がんを経験した女性が語る「治療・暮らし・お金や保険のホンネ」
診療ガイドラインの有効活用方法は?
井出さん:本日はよろしくお願いします。今回の件をきっかけに「患者さんのための乳がん診療ガイドライン」のリニューアル版(2023年版)が発刊されたことをはじめて知りました。私も以前、診療ガイドラインを見たことはあるのですが、なかなか頭に入ってこず‥。そもそも診療ガイドラインはどういうものなのか、患者はどのように活用すればいいのか、教えていただけますでしょうか?
戸井先生:はい、よろしくお願いします。まず、診療ガイドラインとは、一定以上の高度なレベルや水準が要求される手法によって行われた研究に基づく、現時点で最も推奨される診療法が書かれたものです。医療者だけでなく患者さんを支援する目的でも作られておりますので、自身の治療方針を決めるときの判断材料としてお役立ていただければと思います。
井出さん:基本的には、診療ガイドラインに書いてある治療法を行うことが「正解」だと考えていいのでしょうか?
戸井先生:診療ガイドラインで推奨される治療法は、確かに成功例が多いですが、必ずしも全てのケースでうまくいくわけではありません。
というのも、現在行われている治療のすべてがエビデンスで説明できるわけではないからです。歴史的に行われている治療法の中にはまだエビデンスがよく分かっていない治療法も存在します。
また、診療ガイドラインは「再発予防」「生命予後の延伸」「合併症の程度」など、複数の要素を考慮して推奨度が決定されていますので、患者さんの価値観によって「正解」の定義も変わってきます。
それでも、診療ガイドラインで推奨されている治療法は、最も確実性の高い治療法ではありますので、まずはそこから考えるがのがいいと思います。
With Mi編集部:患者さんの中には「標準治療は、効果が標準レベル」と誤解して、民間療法に流れるケースも珍しくないと聞きます。井出さんはご自身のがんが発覚したとき、治療方法について色々調べましたか?
井出さん:はい、かなり調べました。女性の象徴である乳房にメスを入れることに抵抗があり、ダメージが少ない方法がいいのでは、高額な治療法の方が効果が高いのでは、と最初は考えていました。
主治医のことを疑いながら、治療を受けていたこともありますから、標準治療以外の治療に走ってしまう気持ちも理解できます。楽な方向に逃げたくなって、抗がん剤治療を避けたりすることもありました。
ですが、勉強を進めるうちに、一時的な回避策が結果的に命を落とすことに繋がる危険があること、標準治療が最も効果が認められている治療法であることを知りました。
戸井先生:そうですね。患者さんによってはセカンドオピニオン、サードオピニオンを受けることもありますし、自分の治療方針に納得して治療を受けてもらうためにも、まず現時点でどんな治療法が最も推奨されているのか、標準治療の知識を身につけるためのツールとして診療ガイドラインは役立つかもしれません。
最新版のガイドラインでは何がどう変わった?
井出さん:「患者さんのための乳がん診療ガイドライン2023年版」は、どういったところが特に改訂のポイントになのでしょうか?
戸井先生:薬物療法が一番大きいですね。私は乳がん診療に40年近く携わっていますが、特にここ数年はこれほど進歩した期間はないというくらい大きな進展があったように思います。
乳がんのサブタイプごとにそれぞれ新しい治療法が一つ、二つ入っていますし、これまで治療が難しいと言われていたトリプルネガティブ乳がんに関しても、新しい免疫チェックポイント阻害薬や、遺伝性乳がん卵巣がんに対する分子標的治療薬が追加されました。
これらの薬物療法によって、乳がんの再発率はより今よりも更に減ってくるはずです。そうなってくると、がんを一度罹患してもそれを克服できる方が増えてくることになりますから、今度は、がんを経験された方のための生活を支える支援、「がんサバイバーシップ」が非常に重要になってきます。
例えば就業の問題ですね。徐々に支援制度は整ってきてはいますが、直接がん患者さんとお話をしていると、データ上の数字と現実とではギャップがあるような気がしていて、復職できずに悩んでいる方はまだまだ多いように感じています。
With Mi編集部:井出さんは、仕事復帰する際に何か苦労されましたか?
井出さん:色々と大変でしたね。去年の秋からフルタイムでの仕事を再開したのですが、私の状況とか体調についてお伝えしていても、なかなか配慮していただけなくて。
例えば、両胸に転移をしていたのであまり腕に負担をかけたくなかったのですが、けっこう重たいものを持つ仕事があると、男の方に荷物を代わりに持ってもらったりしていたんですよ。
そうすると、「同じお給料をもらっているのに、業務に差があるのはおかしい」と、よく思わない人も中にはいて、結果的には、私はそういう会社で働くのは難しいと思い、転職することにしました。
次に働くところは、福利厚生や健保が充実していて理解をしてくれる会社で、ありがたくもそういった環境で働くことができたのですが、全員が全員、恵まれた職場に出会えるとは限らないですし、復職できずに悩んでいる方も多くいらっしゃると思います。
戸井先生:やっぱりもう少し社会的キャンペーンが必要なんですよね。色んな支援制度があるということがまだ知られていないですし、社会全体のがんに対する認知度が上がる必要もあると考えています。
がん治療は一昔前と比べて格段に進歩していますから、通常の健常人とほとんど変わらずに、あるいは近いかたちで過ごせるという認知が必要だと思います。企業側の理解が進まないと、がんを経験された方の復職率というのはなかなか上がってこないと思います。
その上で、働く上でのケアが必要な方もいますから、きちんと管理された状態で職場にどう情報を伝えていくか、伝えられた情報を受けた側がきちんと消化できるか、その辺が一つポイントとしてあると思いますね。
がんとの正しい戦い方とは
With Mi編集部:最後にこの記事を読んでくださっているがん患者さんやご家族に向けてメッセージをいただけますか?
戸井先生:「一人で戦わないでくださいね」ということです。がん治療は、やっぱり戦いなんですよ。一人で戦うにはちょっと分が悪いので、なるべくたくさん味方に協力してもらって戦った方が効率的だと思います。
医療者はもちろんそうですが、同じような治療を受けたことのある経験者の方も力になってくれると思います。特に乳がんの診断がついてすぐは非常に強いストレス下に置かれてしまって、冷静に判断をするのが難しい状態になります。その際に、経験者の意見はとても助けになると言われています。
あとは、ご家族、親しい友人ですね。専門性の高い知識を持っているわけではないかもしれませんが、話をする中で、ちょっとずつ自身の理解が深まっていくということもしばしばあると思います。とにかく、無理に一人で頑張ろうとせず、周りを頼ってチームで戦うことが、がんとの正しい戦い方だと思います。